森田清 「超高周波工学の樹立」
要約
森田清は1930年代に、東工大大岡山と筑波山頂間の関東平野を横断する超短波による初の通信実験を達成、均圧環付きマグネトロンを発明して安定なセンチ波の発生に成功、そして、1950年代には山間部の発電所等へのマイクロ波無給電中継方式を開発するなど、当時はまだ未成熟技術であった超高周波工学分野を開拓して樹立すると共に、数多の人材を育成した。
研究業績要約
東京工業大学時計塔と筑波山頂間のマイクロ波通信実験の達成
「昭和10年(1935年)6月~7月には東京工業大学に於いて試作した放物線反射鏡付波長68cm電子振動型、出力3wattの発振器を以て東工大、茨城県筑波山頂間の80kmに亘り通信実験を行った。送信は工大側より行なったもので電話としての出力は1~2wattであろうが、受信機に超再生検波二段のものを用いて充分山頂で拡声器が働いた。
使用せる放物鏡は図447(写真1)に示せる如く焦点距離52.5cm、開口は上下部を切り去った圓形でその直径2.5mである。斯くの如く上下部を切り去った理由は空中線が垂直ダブレットとして焦点に垂直に配せられている以上は、その上下方向には殆ど電波が出来ぬ故、ダィメンションを小さくする一助としてこの部分を切り去った譯である。
伝搬は直視可能距離故何等の不安定なく尚外来雑音なくして極めて安定明快であった」。([1]p382による)。この実験成功は当時の快挙で、その後、筆者を含めた多くの若者に夢と挑戦心とを植え付けた。
写真1 東工大時計塔・筑波山頂間マイクロ波通信実験に使用したパラボラアンテナ。1935年。参考文献[1]p382森田清。
短波長帯の均圧環マグネトロンの発明と実現
西巻正郎(後の名誉教授)と共に、均圧環付きマグネトロンを発明して、短波長帯の安定なマイクロ波発生に貢献した(写真2)。1936年頃。([1]pp231~232による)。大学に高度なガラス細工が出来る工作室を擁し、実験装置を「自作する」と云う伝統を確立し、産業界からも高い信頼を得た。
写真2 均圧環マグネトロン、東工大真空管工作室で試作。1936年。東京工業大学博物館所蔵、参考文献[1]p82,森田清。
マイクロ波の無給電中継方式の開拓
「東北電力の依頼で、1952年に、NECの協力の下に、猪苗代湖の東岸にそびえ立つ五台山の頂上から、湖の西対岸の大杉山の頂上に置いた「合わせ鏡」状の二枚の4メートル角の反射板へマイクロ波を送り、これを急角度で屈折させ、盆地の底にある会津若松市へ送り届けるものであった。」([2]p82)による。この電波の無給電方式の実験には、当時は助手の末武国弘(後の名誉教授)や関口利男(後の工学部長)が参加した。この方式は広く利用された。
特記事項
森田清の新しい分野開拓への挑戦心は、産業界から高く評価され、また、若い研究者の卵達に大きな刺激を与え、門下からは大勢の優れた研究者達を輩出した。「したいしたいと思い続ければ、必ず達成される」と云う言葉は、若者に得難い教訓を与えた。
著書の「超短波」(1940年)は初期のマイクロ波研究を系統的に概観した名著として電気学会から文献賞(1946年)を、定年後に出版した「情報と予測」(1970年)は電子情報通信学会から著述賞を受賞した。
なお、森田が研究の絶頂期にあった1945年に日本は敗戦し、暫くの間、マイクロ波研究禁止の憂き目にあった。こうした逆境下にもめげずに輝き続けた存在は誠に大きかった、と特記したい。
参考文献
[1]森田清、「改定超短波」(有)修教社書院、1944-3。
[2] 「東工大史記」、東京工業大学大学人国記、東京工業大学創立百十周年記念誌、pp 1-1,269,蔵前工業会、1995-7。
(2021-2-8末松安晴-談)
略歴
MORITA Kiyoshi, “Establishment of Ultra-High Frequency Engineering”
森田清
1901-3 生誕
1921-3 東京高等工業学校卒
1925 工学博士
1932 東京工業大学教授
1960 東京工業大学名誉教授、沖電気(株)技師長、勲三等旭日中綬章
2005-12 逝去(享年104才)