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展示解説

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東京科学大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。
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#展示

蔵前キャンパスの整備

隅田川沿いの蔵前キャンパスは、江戸時代には幕府の年貢米を収蔵する米蔵が立ち並ぶ「浅草御蔵」と呼ばれた土地で、1882(明治15)年に上野に移転した「浅草文庫」の跡地が東京職工学校の土地として交付されました。その年の12月には洋風煉瓦造の校舎が、続いて拡張された敷地に各学科の工場が竣工し、実業学校としての教育環境が整いました。1890(明治23)年には第二代校長として手島精一が着任し、校名も東京工業学校に改名されました。 日清戦争が終結した1895(明治28)年頃から技術者の

米国で建築学を学んだ初代建築科長 −滋賀重列

滋賀重列(1866-1936)は、1902(明治35)年に設置された建築科の初代科長を務めた人物で、蔵前キャンパスの本館をはじめとする主要建築を設計した、本学最初のプロフェッサー・アーキテクトです。  滋賀重列は、徳大寺家の家職を務めた滋賀家に長男として生まれ、幼少時は錦華小学校(現・お茶の水小学校)から府立一中(現・日比谷高校)へと進学し、どちらも一期生として卒業しました(ともに夏目漱石と同級)。その後、1887(明治20)年に米国に渡って現地で語学を学び、1889(明治

工業図案科の設置と図案教育の重視

手島精一(1850-1918)は、1894(明治27)年に附設工業教員養成所を設置した3年後に同所内に「工業図案科」を新設しました。その意図は、陶磁器や漆器・木工品、織物といった伝統的な工芸品の近代化と販路拡大には、当時急速に発達してきた印刷技術の応用に適した新たな意匠「図案(Design)」の開発と、それを担う人材の育成が必要と考えたためでした。工業図案科の教員には、当時としては数少ない海外におけるデザイン教育経験者が集められました。 工業図案科の授業では、3年間かけて意

型染絵による美の表現 −芹沢銈介

芹沢銈介(1895-1984)は、静岡市でも屈指の呉服太物卸商「大石商店」の7人兄弟の次男として生まれ、1913(大正2)年に東京高等工業学校図案科に入学して工業デザインの基礎を学びました。卒業後は、故郷の静岡市に戻って静岡工業試験所の技師として地元静岡の業者や職人に蒔絵・漆器・木工・染色・紙などの図案の指導を行い、その後も大阪府立商品陳列所図案課技師として意匠図案の調査・研究を行い、工業デザイナーとしての実績を積みました。 芹沢は、1927(昭和2)年に柳宗悦の論文「工芸

科学的な眼差しと詩人の心  ー河井寛次郎

河井寬次郎(1890-1966)は、島根県能義郡安来町に大工棟梁の次男として生まれ、1910(明治43)年に東京高等工業学校(東京科学大学の前身)窯業科に入学して近代窯業の科学的な基礎を学び、卒業後は京都市陶磁器試験場に就職し、主に中国古陶磁器の釉薬研究に取り組みました。 1920(大正9)年には京都五条坂にある五代清水六兵衛の登窯を譲り受け、「鍾渓窯(しょうけいよう)」と命名、住居と陶房を構え、本格的な作陶活動に入ります。翌年に開催した第一回創作陶磁展で中国・朝鮮古陶磁の

益子を拠点に民藝の道を追求 ー濱田庄司

濱田庄司(1894-1978)は、神奈川県橘樹郡高津村字溝ノ口(現在の川崎市高津区溝口)で生まれ、1913(大正2)年、東京高等工業学校(東京科学大学の前身)窯業科に入学し、2学年先輩の河井寛次郎らと出会います。卒業後は、河井が勤める京都市陶磁器試験場に就職し、釉薬の研究に取り組みました。 濱田は、京都や沖縄、イギリスなど各地で作陶をした後、栃木県の益子に定住し築窯、陶器制作を行うとともに、柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチらと民芸運動の中心人物として活躍しました。

「縄文象嵌技法(じょうもんぞうがん)」を生み出した民藝の伝承者 ー島岡達三

島岡達三(1919-2007)は、河井寬次郎・濱田庄司らの生み出した民藝に心を揺り動かされて陶芸家を志し、師の濱田が拠点にしていた益子で思索・作陶を続け、「縄文象嵌」という独自の美を生み出ました。 1919(大正8)年、東京・愛宕の組紐師、島岡米吉の長男に生まれ、旧制高校三年生の時に、日本民藝館で見た河井寛次郎や濱田庄司の作品に感動し、陶芸家になることを決意します。1939(昭和14)年、東京工業大学(東京科学大学の前身)窯業学科に入学。翌年、益子の濱田を訪れ、卒業後の入門

平野コレクション

平野耕輔(1871-1947)は、東京職工学校(東京科学大学の前身)陶器玻璃工科を1891(明治24)年に卒業しました。ワグネルに師事し、外国留学後は東京高等工業学校(東京科学大学の前身)の教授および窯業科長、旧南満州鉄道(株)窯業試験工場長、商工省陶磁器試験所長を歴任して斯界の発展に尽くしました。1940(昭和15)年、窯業学科主任として再び母校にもどり、1943年には初代東京工業大学(東京科学大学の前身)付属窯業研究所長に就任しました。 当館の平野陶磁器コレクションは、

東工大時代の工芸・デザインの先導者達

概要 東京工業大学(東京科学大学の前身)は、優れた陶芸家・工芸家も数多く輩出しています。本学は、日本にまだ工業が育っていなかった1881(明治14)年に、近代的な科学・技術を身につけ、西洋に劣らぬ優れた製品を創造できる技術者、それもリーダーとなる人を育て日本に工業を起こそうと建学されたためです。 建学当時問題となっていたのは、輸出製品の品質とデザインであり、例えば、陶器は焼成温度が低く、デザインは魅力に欠けていたのです。本学創設の強力な進言者であったドイツ人教師 Dr. ワ

フェライト研究 加藤与五郎・武井武

加藤与五郎・武井武によるフェライト研究フェライトとは、酸化鉄を主成分とする磁性材料で、戦前から戦後にかけてスピーカーやモーターの磁石、磁気テープやコンピューターの磁気ディスクなどに使われ、現在でもテレビやパソコン、携帯電話、ハイブリッドカーや風力発電など、電気・電子機器の小型・薄型・高機能化、省エネ・省資源化にも大きく寄与し、現代エレクトロニクス社会を根底から支えています。 フェライトは、1930(昭和5)年に東京工業大学(東京科学大学の前身校)の加藤与五郎教授(1872-

ビタミンB₂の工業的製造の研究 ー星野敏雄・佐藤徹雄

ビタミンB₂は、1879年A. W. Blyshにより牛乳黄色色素ラクトクロームとして報告された動物の成長促進因子のことです。現在では、フラビン酵素やフラビンアデニンジヌクレオチド(FAD)の形で広く生体内の酸化還元反応に関与している事が知られている一種の補酵素です。その構造は、1936年P. Karrer及びR. Kuhnにより決定され、世界各国で合成研究が行われていました。 星野敏雄(1899-1979)・佐藤徹雄 (1908-1968)両教授は、1942年から研究を始

化学工学科の創設 ー内田俊一

内田俊一(1895-1987)は、東京の京橋に生まれました。府立一中、第一高等学校を経て、1920(大正9)年7月東京帝国大学工学部応用化学科を卒業、同年9月臨時窒素研究所技師になりました。研究所では、小寺房治郎所長の下でアンモニア酸化による硝酸製造プロセスの工業化について研究を行い、白金代用触媒を使ってパイロットプラントづくりをしていました。 1929(昭和4)年、東京高等工業学校の大学昇格に際し、本学の附属工業専門部教授となり、同年5月から、米国MIT(マサチューセッツ

合成ゴム・合成繊維の開発 ー神原周

神原周(1906-1999)は、東京に生まれました。1930年早稲田大学理工学部応用化学科を卒業後、本学松井元太郎教授の助手となり、イオウの物性測定の研究に従事しました。特徴ある応用化学科を育てることを提唱し、自らゴム研究室を主宰していた田中芳雄教授(東京帝国大学教授兼任)に請われて、1934年、研究室を移りゴムの研究をはじめました。これを契機に、広く高分子科学の発展に貢献することになります。 第2次大戦中1, 3-二塩化プロパノール-2と四硫化ソーダから耐熱、耐油性にすぐ

光イオン化・レーザー光化学の研究 ー田中郁三

田中郁三(1926-2015)は、1950年代、質量分析のイオン源に電子衝撃の代わりに真空紫外部の光を用いる光イオン化質量分析法と呼ばれる新しい方法を世界で初めて考案し、そこから真空紫外光化学という新領域を開拓しました。 全ての物質は分子からなり、分子はプラス電荷をもつ原子核と、マイナス電荷の電子から構成されています。この分子(M)にイオン化ポテンシャル(IP:各分子に固有な物理量)より大きな光エネルギー(hv)を与えると、分子に固有の光イオン化効率(n)で光イオン化が起こ