化学工学科の創設 ー内田俊一
内田俊一(1895-1987)は、東京の京橋に生まれました。府立一中、第一高等学校を経て、1920(大正9)年7月東京帝国大学工学部応用化学科を卒業、同年9月臨時窒素研究所技師になりました。研究所では、小寺房治郎所長の下でアンモニア酸化による硝酸製造プロセスの工業化について研究を行い、白金代用触媒を使ってパイロットプラントづくりをしていました。
1929(昭和4)年、東京高等工業学校の大学昇格に際し、本学の附属工業専門部教授となり、同年5月から、米国MIT(マサチューセッツ工科大学)へ、八田四郎次とともに赴き、化学工学全般にわたって研究しました。
1931年8月に帰国後、新設の東京工業大学(東京科学大学の前身)化学工学教室の教授に着任しました。1932年、内田の指導を受けた矢木栄が助教授に、1934年には、応用化学科の学生で、内田のもとで卒業研究を行なった言わば2回生の藤田重文を助手に迎えました。
化学装置の重要性に対する世間の認識が高まるなかで、1936年に、化学機械協会(現在の化学工学協会)を設立。内田・八田・亀井・友田編集の『化学工学講座』を出版しました。大山義年も執筆者の一人として活躍しました。当時、化学工業の技術面は、主に輸入によってまかなわれており、装置の設計方面の技術は遅れていました。設計に資すべき基礎理論の研究も運用も充分でない状況にあったと、内田と矢木は「東京工業大学に創設せられたる『化学工学科』の課程について」(『化学機械』4巻, 1号, 昭和15年3月10日発行)に書いています。
内田は、応用化学と機械工学が組織的に結合された化学工学科の日本での新設を説いていました。石井茂助事務官らの尽力もあり、1938年秋、本学に化学工学科を新設する案が閣議を通過しました。学内に化学工学科創設準備委員会が設けられ、内田は委員長に就任しました。『化学機械』の稿で内田らはこう締めくくっています。
1940年4月、日本最初の化学工学科が発足し、20名の学生が入学しました。同年末には、内田・八田・亀井の共著による『化学工学』が出版されました。1941年4月までの間に、本学の化学工学科は、大山義年、末沢慶忠を迎え、物理化学教室より佐藤一夫が移籍してきました。その後、化学工学科から多数の有能な化学技術者が巣立っています。
内田はまた、戦後、和田小六学長のもとで本学の改革に尽力し、1948年から、経済安定本部に附置された資源委員会(現在の資源協会)の副会長として活躍しました。1952年~1958年8月には、本学学長を勤め、1984年文化功労者として顕彰されました。