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蔵前キャンパスの整備

隅田川沿いの蔵前キャンパスは、江戸時代には幕府の年貢米を収蔵する米蔵が立ち並ぶ「浅草御蔵」と呼ばれた土地で、1882(明治15)年に上野に移転した「浅草文庫」の跡地が東京職工学校の土地として交付されました。その年の12月には洋風煉瓦造の校舎が、続いて拡張された敷地に各学科の工場が竣工し、実業学校としての教育環境が整いました。1890(明治23)年には第二代校長として手島精一が着任し、校名も東京工業学校に改名されました。

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隅田川から見た蔵前キャンパス

日清戦争が終結した1895(明治28)年頃から技術者の需要が急速に高まり、それを受けて校地の拡張、工場の増築、機械の増設、学生増募が行われました。その3年後にはさらに大規模な拡張計画として、本館・工場の増改築、機械設備の新規購入などが実施され、1901(明治34)年に校名が東京高等工業学校と改称されたのと期を一にして、蔵前キャンパスの景観も一新されました。

この時に新築された主な建物に、本館(1902)、機械科木工所(1899)、電気科電機機械分科工場(1900)、染織工科機織分科工場(1903)などがあります。いずれも外観を赤煉瓦仕上げとした煉瓦造の建物で、派手さはありませんが、屋根や窓廻りの細部に装飾を施した優れたデザインと言えます。これらはすべて初代建築科長・滋賀重列(1866-1936)により設計されました。

蔵前キャンパスを象徴する3階建ての本館(1902)は、正面の中央と両翼を少し強調し、マンサード屋根を載せたルネサンス様式の外観をしていますが、建物内部には滋賀が米国で学んだ最新式の環境設備が導入され、各階の教室には米国式の放熱器が設置されたほか、廊下には給水設備が設置されました。これは授業の利便性だけでなく日常生活の衛生や防災をも目的とした、当時としては先進的な試みでした。

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本館
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本館講堂内部


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