東工大時代の工芸・デザインの先導者達
概要
東京工業大学(東京科学大学の前身)は、優れた陶芸家・工芸家も数多く輩出しています。本学は、日本にまだ工業が育っていなかった1881(明治14)年に、近代的な科学・技術を身につけ、西洋に劣らぬ優れた製品を創造できる技術者、それもリーダーとなる人を育て日本に工業を起こそうと建学されたためです。
建学当時問題となっていたのは、輸出製品の品質とデザインであり、例えば、陶器は焼成温度が低く、デザインは魅力に欠けていたのです。本学創設の強力な進言者であったドイツ人教師 Dr. ワグネルは、陶器玻璃工科の設立を訴え、ヨーロッパで進んでいた製陶法の科学・技術や合理的な窯のつくりかたを教え、デザインとしては日本画を採用し、自ら実験して「旭焼」を創造しました。
また、本学創設の中心人物で第二代校長を勤めた手島精一は、1899年「工業図案科」を設置しました。「工業学校に図案科を置けば、物品の用途を明らかにしてやるから甚だ宜しくなる」と述べています。
彼らの意志を継ぎ、新しいデザインをその素地の科学・技術的研究とともに生み出す流れは、本学の誇るべき伝統ともいえるものです。
ゴットフリート・ワグネル
(Gottfried Wagener /1831-1892)
ドイツ・ハノーバー生まれ。1852年ゲッチンゲン大学で数学上のDas Pothenot'sche Problem (「ポテノー」問題)に関する論文により学位を得ます。1870年に現・東京大学のドイツ語教師となり、その後も化学・物理学の教鞭をとりました。併せて農商務省の依頼で製陶窯の改良にあたり、自ら純日本風の芸術性の高い釉下彩陶器を創製し、「吾妻焼(あずまやき)」と称しました。
1884年に東京職工学校の教師となって窯業学を開講し、1886年陶器玻璃工科が設置されると、吾妻焼の設備も東京職工学校に移されました。これが、東京工業大学における窯業学科の始まりです。その後、吾妻焼は「旭焼(あさひやき)」と名を変えます。旭焼は、花鳥風月を基調とする日本画的意匠と貫入のない美しい肌理と絵付けを一体化させた釉下彩技法が特徴であり、額皿・花瓶・タイル等世界に通じる製品が多く製作されました。
中田清次
(Seiji NAKADA /1871-1948)
日本画家、図案家。号は雲暉。小田原生まれ。1875年東京芝にて岡本秋暉の弟子、羽田子雲に日本画を学び、その後、渡辺華石の指導を受けます。
1901年に東京工業学校窯業科嘱託、陶芸着色・自在画を指導。第7回文展(1913)、第9回文展(1915)入選。1929年、東京工業大学窯業科附属特設科の講師となり、大倉陶園顧問となります。板谷波山とともにマジョリカの試作等の陶器焼成もおこないました。長男の信は東京美術学校卒業の日本画家、二男孝は東京工業大学卒業、転移歯車の研究で著名な同大学名誉教授、日本学士院会員です。
板谷波山
(Hazan ITAYA /1872-1963)
茨城県下館市生まれ。本名は嘉七。波山は筑波山にちなんただ号。1894年東京美術学校彫刻科を卒業、石川県工業学校教諭(彫刻科のち陶磁科)になります。
陶磁科主任北村彌一郎から化学や釉下彩、結晶釉などを学び、1903年に東京高等工業学校窯業科嘱託、東京都田端に居と工房を構えました。翌年本校教授平野耕輔の設計と指導により三方焚口の倒焔式丸窯を築き、1906年の初窯の彩磁作品で受賞。1911年、本校で葆光釉・葆光彩磁の研究試作を進めました。従来の茶道でなく陶自体のデザインを考えた作品を多数制作し、1953年陶芸家初の文化勲章を受章。
各務鑛三
(Kozo KAGAMI /1896-1985)
岐阜県土岐市笠原町生まれ。1914年から板谷波山の後任として東京高等工業学校嘱託、1918年に平野教授に従い、満鉄中央試験所に勤めました。1927年、ドイツのストゥットガルト美術工芸学校でウィルヘルム・フォン・アイフ教授に師事し、クリスタル工芸ガラス器の研究やグラビール技法を学び、1929年帰国。翌年板谷を頼り上京、滝野川に各務クリスタル工芸硝子研究所を、1936年大田区西六郷に各務クリスタル製作所を設立し制作に専念します。
1958年ブリュッセル万博でグランプリ、1960年日本芸術院賞を受賞。工業技術と芸術の結合を目指すバウハウスの造形理論を日本へ導入・実践し、日本のガラス工芸を、産業的側面をふまえつつも、世界的レベルの造形芸術へと高めました。
辻晋六
(Shinroku TSUJI /1905-1970)
京都府立第二中学校を経て、東京高等工業高校窯業科入学。卒業後山科に開窯。作陶の傍ら京都市立第二工業高校窯業科にて教鞭をとりました。その後、旧満州に渡り吉林にて製陶。終戦により引き上げ京都に帰り、五条・丹波橋・泉涌寺で窯を借り焼いていましたが、1955年蛇ヶ谷に築窯。
1970年没後、窯は息子の勘之が継ぎ、現在の晋六窯に至ります。その作品は、土や釉薬といった材料が持つ自然の美しさを引き出した、親しみのある器です。イタリア・フィレンツェ市陶磁器博物館の作品は永久保存に指定されています。
辻常陸
(Hitachi TSUJI /1909-2007)
本名は常喜。辻家は1633年より代々皇室御料器の用命を受けてきた窯元です。第8代喜平次は特殊な焼成法「極真焼」を発明しました。
第14代辻常陸(常喜)は、1930年に東京工業大学附属工学専門部窯業科卒業。1947年第14代を襲名。1951年、宮内庁より戦後初めて皇室御料器の用命を受けます。1985年秘伝の極真焼を再興するなど、「禁裏御用窯元」の手業と心を伝えてきました。
田山精一
(Seiichi TAYAMA /1923-2015)
1948年に東京工業大学専門部窯業科を卒業後、茨城県窯業指導所にて研修を受け、さらに 1957年から東京工業大学の先輩にあたる濱田庄司に指導を受けました。これらの経験を積んだ後、1959年に通産省技術補助を受け、笠間の地に築窯し、作陶活動に励んでいます。
幼少時代の病気による弱視にも関わらず、均窯を倣った作品など、見事な陶磁器を制作しています。各種陶芸展で入選し、多く個展を開催。1978年には日本工芸会正会員となり、秩父宮献上品を制作するなど、陶芸界で活躍する本学卒業生の一人です。
加藤釥
(Sho KATO /1927-2001)
瀬戸赤津で代々丈助を名乗る名家21代目に生まれました。1944年愛知県立窯業学校を卒業。1948年東京工業大学附属工業専門部窯業科を卒業。
「洗練され過ぎた作陶に飽き足らず、土臭さを心がけた造形を目指す」と評されてきましたが、当初は容易に認められず、日展出品8回目にして初入選。以後は、連続して入選・特選。1963年第1回朝日陶芸展通産大臣賞受賞、1964年日展特選北斗賞受賞など多数受賞し、1986年第8回日本新工芸展内閣総理大臣賞受賞、1994年第4回日工会文部大臣賞受賞、2000年愛知県無形文化財(陶芸鉄釉技法)保持者に認定。
村田浩
(Hiroshi MURATA /1943- )
東京都中野区に生まれ、翌年栃木県益子町に移住。父は陶芸家・村田元。幼少より蹴ろくろを回し、1967年東京工業大学無機材料工学科卒業。1970~78栃木県窯業指導所嘱託、1977年に登り窯を築窯し独立。1978年オーハシホールでの個展の他、毎年のように個展を開催。
蹴ろくろの確かな技術を駆使し、おおらかで伸びやかな造形の作品をつくっています。登窯の良さを生かし、また、伝統的釉薬を使いこなし、特に糠白釉にその良さが出ています。その意匠は、身近な植物をモチーフとして使い、穏やかでしっかりとした鉄絵の線が特徴です。1981年より、母校の非常勤講師として作陶の指導をしていました。
「窯業」その他の解説はこちら