東京科学大学博物館

東京科学大学博物館(東京・大岡山)のnoteです。ここでは、展示品の解説や、刊行物などの情報を共有していきます。

東京科学大学博物館

東京科学大学博物館(東京・大岡山)のnoteです。ここでは、展示品の解説や、刊行物などの情報を共有していきます。

マガジン

  • 企画展示解説

    東京科学大学博物館の企画展示の解説を集めました。

  • 展示解説

    東京科学大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。

  • 通信

    東京科学大学博物館に展示中の資料のうち、通信技術やコンピュータ関連の解説を集めました。

  • 窯業

    東京科学大学博物館に展示中の資料のうち、窯業関連の解説を集めました。

  • 機械遺産

    東京科学大学博物館に展示中の資料のうち、世界的に価値のある技術遺産や、紡織学科実験工場で使用された機械類の解説を集めました。

企画展示解説

東京科学大学博物館の企画展示の解説を集めました。

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空気圧の産業界と人間の生活への応用 基礎技術:等温化圧力容器 名誉教授 香川利春

0.前書き みなさん、こんにちは。 まず最初に自己紹介させていただきます。私は1974年に東京工業大学(東京科学大学の前身)制御工学科を卒業して計装メーカ技術部に2年間在職し、その後東京工業大学(東京科学大学の前身)制御工学科の助手、講師、助教授、教授として務めて4年前に定年退職しました。学部の成績はやっとこ半分以上との感じで、学生時代はオートバイや登山に夢中になっていました。それでも大学の研究者である以上、研究分野を持ってなんかやらなければとの気持ちを持っていました。そ

ニューダイヤモンド -機能性炭素材料の魅力- 科学技術創成研究院 教授 大竹尚登

1.はじめに  この展示の主役である炭素は,様々な顔をもちます。全ての生物は炭素なしには存在しませんし,炭もその名のとおり炭素が主成分です。地球温暖化の元凶と言われる二酸化炭素も炭素と酸素で構成されています。そして炭素は,科学技術と産業の視点からみると,とても魅力的な材料でもあるのです。薄膜としての炭素材料の分類を図1に示します。 図の上の頂点は,炭素が四面体のような構造で結合(sp³混成軌道により結合)していることを示し,ダイヤモンドはこの頂点に位置します。また,左下の

数理モデルで推し進めるファッションのDX ビネット&クラリティ代表 安田翔也

会社設立の経緯を教えてください 振り返ると、学部入学から博士卒業まで10年間東京工業大学(東京科学大学の前身、以下、東工大)に所属していたことになります。入学当初はとにかく”生物っぽい”実験がしたいと思っていましたが、専門科目を学ぶうちに生物を数理的な側面から見ることへの興味が増しました。そこで、卒研ではウニやヒトデの卵割の実験を、修士ではマイクロサイズの人工細胞に関わる研究を、博士ではマウス免疫細胞の生存力を数理モデル化して卒業しました。細胞を扱うという点は一貫しています

ナノファイバーが創る地球環境 谷岡 明彦

はじめにナノファイバーとは、直径が1nmから1000nm(注1)、長さが直径の100倍以上の繊維状物質(毛髪(約Φ0.06 mm = 60 μm)の100分の1から1000分の1の太さを持つ超極細繊維)です。ナノファーバーはアキレス腱、骨、遺伝子などのように身近に存在するものですが、工業的にも作ることができます。工業生産方法としては高電圧を使用するESD(Electro Spray Deposition:一般的には電界紡糸法とも呼ばれ溶媒に溶解した高分子を利用)や異なった高分

展示解説

東京科学大学博物館に展示中の収蔵品の解説を集めました。

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蔵前キャンパスの整備

隅田川沿いの蔵前キャンパスは、江戸時代には幕府の年貢米を収蔵する米蔵が立ち並ぶ「浅草御蔵」と呼ばれた土地で、1882(明治15)年に上野に移転した「浅草文庫」の跡地が東京職工学校の土地として交付されました。その年の12月には洋風煉瓦造の校舎が、続いて拡張された敷地に各学科の工場が竣工し、実業学校としての教育環境が整いました。1890(明治23)年には第二代校長として手島精一が着任し、校名も東京工業学校に改名されました。 日清戦争が終結した1895(明治28)年頃から技術者の

米国で建築学を学んだ初代建築科長 −滋賀重列

滋賀重列(1866-1936)は、1902(明治35)年に設置された建築科の初代科長を務めた人物で、蔵前キャンパスの本館をはじめとする主要建築を設計した、本学最初のプロフェッサー・アーキテクトです。  滋賀重列は、徳大寺家の家職を務めた滋賀家に長男として生まれ、幼少時は錦華小学校(現・お茶の水小学校)から府立一中(現・日比谷高校)へと進学し、どちらも一期生として卒業しました(ともに夏目漱石と同級)。その後、1887(明治20)年に米国に渡って現地で語学を学び、1889(明治

工業図案科の設置と図案教育の重視

手島精一(1850-1918)は、1894(明治27)年に附設工業教員養成所を設置した3年後に同所内に「工業図案科」を新設しました。その意図は、陶磁器や漆器・木工品、織物といった伝統的な工芸品の近代化と販路拡大には、当時急速に発達してきた印刷技術の応用に適した新たな意匠「図案(Design)」の開発と、それを担う人材の育成が必要と考えたためでした。工業図案科の教員には、当時としては数少ない海外におけるデザイン教育経験者が集められました。 工業図案科の授業では、3年間かけて意

型染絵による美の表現 −芹沢銈介

芹沢銈介(1895-1984)は、静岡市でも屈指の呉服太物卸商「大石商店」の7人兄弟の次男として生まれ、1913(大正2)年に東京高等工業学校図案科に入学して工業デザインの基礎を学びました。卒業後は、故郷の静岡市に戻って静岡工業試験所の技師として地元静岡の業者や職人に蒔絵・漆器・木工・染色・紙などの図案の指導を行い、その後も大阪府立商品陳列所図案課技師として意匠図案の調査・研究を行い、工業デザイナーとしての実績を積みました。 芹沢は、1927(昭和2)年に柳宗悦の論文「工芸

通信

東京科学大学博物館に展示中の資料のうち、通信技術やコンピュータ関連の解説を集めました。

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KDD 大手町中央局舎の標準時計 ー古賀逸策

国際電信電話株式会社(KDD)で、標準時計を設置するに際し、国産で世界に誇れるものとして、古賀逸策(1899年-1982年)研究室にて開発されたKQ6水晶時計を中心とする装置が採用されました。 KQ6は、古賀研究室で開発が進められていた水晶時計の最終形であり、この装置には、周波数温度特性の優れた水晶振動子300kHz R1(AT)板による発振信号を分周した50Hzの信号により動作する同期モーターが用いられ、亜細亜製作所の製作により、1955(昭和30)年12月に完成納入され

世界で初めて実用化された、単一モード光ファイバ通信システム

1982(昭和57)年に、実用化された初めての事例として、本学では、大岡山と長津田(すずかけ台)のキャンパス間を光通信(光ファイバを用いて信号を伝える方法)で結ぶ総合情報伝達システムを構築しました。  光ファイバは、当時日本電信電話公社が開発した世界最新の低損失単一モードファイバ(波長 1.3um)を用い、8本の光ファイバ(400Mbps双方向が4本、100Mbps双方向が2本、予備が2本)をまとめて1本のケーブル(26.4km)にして、東急大井町線・田園都市線沿いのトラフ

スーパーコンピュータ ETA10

ETA10 (アメリカ・CDC社製) は、1988(昭和63)年に本学の総合情報処理センター(現、学術国際情報センター)に導入された初めてのスーパーコンピュータです。 8プロセッサ(CPU)を搭載する並列型のスーパーコンピュータであり、プロセッサや I/O デバイスを光ファイバーで接続するなど、当時としては革新的かつ群を抜いた計算性能を有していました。 しかし残念ながら、実稼働では液体窒素を用いた機器の冷却部の故障やOSをはじめとするソフトウェア群の整備が行き渡らず、予想

窯業

東京科学大学博物館に展示中の資料のうち、窯業関連の解説を集めました。

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科学的な眼差しと詩人の心  ー河井寛次郎

河井寬次郎(1890-1966)は、島根県能義郡安来町に大工棟梁の次男として生まれ、1910(明治43)年に東京高等工業学校(東京科学大学の前身)窯業科に入学して近代窯業の科学的な基礎を学び、卒業後は京都市陶磁器試験場に就職し、主に中国古陶磁器の釉薬研究に取り組みました。 1920(大正9)年には京都五条坂にある五代清水六兵衛の登窯を譲り受け、「鍾渓窯(しょうけいよう)」と命名、住居と陶房を構え、本格的な作陶活動に入ります。翌年に開催した第一回創作陶磁展で中国・朝鮮古陶磁の

益子を拠点に民藝の道を追求 ー濱田庄司

濱田庄司(1894-1978)は、神奈川県橘樹郡高津村字溝ノ口(現在の川崎市高津区溝口)で生まれ、1913(大正2)年、東京高等工業学校(東京科学大学の前身)窯業科に入学し、2学年先輩の河井寛次郎らと出会います。卒業後は、河井が勤める京都市陶磁器試験場に就職し、釉薬の研究に取り組みました。 濱田は、京都や沖縄、イギリスなど各地で作陶をした後、栃木県の益子に定住し築窯、陶器制作を行うとともに、柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチらと民芸運動の中心人物として活躍しました。

「縄文象嵌技法(じょうもんぞうがん)」を生み出した民藝の伝承者 ー島岡達三

島岡達三(1919-2007)は、河井寬次郎・濱田庄司らの生み出した民藝に心を揺り動かされて陶芸家を志し、師の濱田が拠点にしていた益子で思索・作陶を続け、「縄文象嵌」という独自の美を生み出ました。 1919(大正8)年、東京・愛宕の組紐師、島岡米吉の長男に生まれ、旧制高校三年生の時に、日本民藝館で見た河井寛次郎や濱田庄司の作品に感動し、陶芸家になることを決意します。1939(昭和14)年、東京工業大学(東京科学大学の前身)窯業学科に入学。翌年、益子の濱田を訪れ、卒業後の入門

平野コレクション

平野耕輔(1871-1947)は、東京職工学校(東京科学大学の前身)陶器玻璃工科を1891(明治24)年に卒業しました。ワグネルに師事し、外国留学後は東京高等工業学校(東京科学大学の前身)の教授および窯業科長、旧南満州鉄道(株)窯業試験工場長、商工省陶磁器試験所長を歴任して斯界の発展に尽くしました。1940(昭和15)年、窯業学科主任として再び母校にもどり、1943年には初代東京工業大学(東京科学大学の前身)付属窯業研究所長に就任しました。 当館の平野陶磁器コレクションは、

機械遺産

東京科学大学博物館に展示中の資料のうち、世界的に価値のある技術遺産や、紡織学科実験工場で使用された機械類の解説を集めました。

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ツェッペリン飛行船のギアボックス

解説 本減速機(ギヤボックス)は,第一次大戦の戦時賠償として1920年に日本に引き渡されたLZ75註)ツェッペリン(Zeppelin)飛行船のものではないかと言われています.本学精密工学研究所歯車工学部門に古くから置かれており,研究室のメンバーにはツェッペリンのプロペラ駆動用ギヤボックスと言い伝えられていました. 当該飛行船は1916年11月に初飛行後,偵察,爆撃などの作戦行動を行い,1917年12月に退役しました.終戦(1918年11月11日)後の1920年に戦時賠償と

パーソンズ・タービン

1884(明治17)年、イギリスのチャールズ・A・パーソンズ(1854-1931)は、世界初の蒸気タービンを発明し特許を取得しました。 蒸気タービンは、長い間、多くの発明家達の注意を引いており、1880(明治13)年までに100件ほど特許が登録されてはいましたが、満足な機械を製作するのに役立ったものはなかったといわれます。 パーソンズは、当時もっとも緊急な技術的要求の一つが発電機に直結して駆動する機関の開発にあったことから、在来の直接軸の周囲に取り付けた羽根に蒸気を吹き当

フラットカード(梳綿機)

フラットカードは、綿紡績工程の中のカーディング工程を受け持つ機械です。カーディングとは、綿塊を細長い「しの状」の製品(スライバ)に加工することです。カーディング工程の後、錬条工程で多数のスライバを一本に引きそろえて引き伸ばす操作を繰り返して太さのむらを少なくし、同時に繊維を平行に引きそろえる操作を経て、精紡工程の最終製品である綿糸が出来上がります。 展示されているフラットカードは、世界一流の繊維機械メーカとして長い歴史をもっていたイギリス Platt Brothers 社が

ミニチュア・リング精紡機

展示されている精紡機は、イギリスのPlatt社がShirley Miniature Spinning Plant として教育用に製作したミニチュアプラント(紡織機)の一部で、他にカード機(梳綿機)と錬条機からなり、スライバないし粗糸を供給して糸をつむぐ機械です。文部省から1968(昭和43)年に全国の繊維工学科を持つ国立大学に特別交付され、学生実験に広く用いられました。